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ルキーノ・ヴィスコンティ LUCHINO VISCONTI
1906.11.2(イタリア、ミラノ)~1976.3.17(イタリア、ローマ)
イタリア、ミラノを統治した名門貴族の末裔。幼少から名門貴族としての伝統的教育を厳しく受ける一方、19世紀末に華開いた新時代の革新的思想に触れて育つ。一族がミラノ・スカラ座創立以来のパトロンで自然と舞台芸術を愛好。それは生涯、創造力に影響を及ぼす。
舞台演出・美術をしていた1930年代初頭、パリ社交界で知り合ったココ・シャネルにジャン・ルノワールを紹介され、その『ピクニック』(1936)の助監督として映画界入り。1942年、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』で監督デビュー。イタリアの混乱を生々しく抉り高く評価されるも、第二次世界大戦下の政府に睨まれ、公開僅か数日で上映禁止となる。1944年、レジスタンス活動で逮捕され、銃殺刑を宣告されるが、執行寸前に脱走。終戦後、マリオ・セランドレイ、マルチェッロ・パリエーロ、ジュゼッペ・デ・サンティスと共同で終戦処理のドキュメンタリー『栄光の日々』(1945)を発表。その後、舞台演出を経て、シチリア漁民の苛酷な日常を描いた『揺れる大地』(1948)で映画創作も再開。地元民のみをキャスティングしたオール・ロケのこの作品は、後に“ネオレアリズモの最高峰"と位置づけられた。
以降、映画と舞台を並行させ、貴族教育の洗練による独自の美意識と感性、そして豊かな知性、教養による卓越した世界観と歴史感に貫かれた作品を発表し続けた。1969年の『地獄に堕ちた勇者ども』以降は映画創作に集中していくが、執念の大作『ルートヴィヒ』(1973)を編集中、苛酷を極めたその撮影が祟り血栓症で倒れる。奇跡的に回復するも左半身不随の後遺症が残り、厳しいリハビリを経て作品を完成させた。その後、舞台演出を経て、『家族の肖像』(1974)で映画創作にも復帰。1976年、続く『イノセント』の最終作業の最中、ローマの自宅で死去。人間の本質を厳しく追求することでその未来を見つめようとした偉大な芸術家の死をイタリアは国家として痛み、その葬儀を国葬としてミラノで行った。
《長篇》
『郵便配達は二度ベルを鳴らす』“OSSESSIONE”1943年/141分/モノクロ
『揺れる大地』“LA TERRA TREMA”1948年/161分/モノクロ
『ベリッシマ』“BELLISSIMA”1951年/115分/モノクロ
『夏の嵐』“SENSO”1954年/121分/カラー
『白夜』“LE NOTTI BIANCHE” 1957年/102分/モノクロ
『若者のすべて』“ROCCO E I SUOI FRATELLI”1960年/177分/モノクロ
『山猫』“IL GATTOPARDO”1963年/187分/カラー
『熊座の淡き星影』“VAGHE STELLE DELL 'ORSA...”1965年/100分/モノクロ
『異邦人』“LO STRANIERO”1967年/108分/カラー
『地獄に堕ちた勇者ども』“LA CADUTA DEGLI DEI”1969年/156分/カラー
『ベニスに死す』“MORTE A VENEZIA”1971年/133分/カラー
『ルートヴィヒ』“LUDWIG”1973年/237分/カラー
『家族の肖像』“GRUPPO DI FAMIGLIA IN UN INTERNO”1974年/121分/カラー
『イノセント』“L'INNOCENTE”1976年/129分/カラー
《共同監督》
『栄光の日々』“GIORNI DI GLORIA” 1945年/70分/モノクロ
共同監督:マリオ・セランドレイ、マルチェッロ・パリエーロ、ジュゼッペ・デ・サンティス
《短篇》
『ある三面記事についてのメモ』〈月刊記録第2号〉から)
“APPUNTI SU UN FATTO DI CRONACA”〈episodio di DOCUMENTO MENSILE N.2〉 1951年/5分/モノクロ
《オムニバス》
『アンナ・マニャーニ』〈『われら女性』から〉
“ANNA MAGNANI"〈episodio di“SIAMO DONNE”〉1953年/22分/モノクロ
『前金』〈『ボッカチオ'70』から〉
“IL LAVORO"〈episodio di“BOCCACCIO '70”〉1962年/54分/カラー
『疲れ切った魔女』〈『華やかな魔女たち』から〉
“LA STREGA BRUCIATA VIVA"〈episodio di “LE STREGHE”〉1967年/40分/カラー